2015年12月30日(水)胸に響いたひとこと

マンリョウ平成27年、西暦でいえば2015年もあと一日で終わる。これが私の今年最後のブログになるだろう。さて何を書こうか。そうだ、今年いちばん胸に響いたことを書こう。

少し個人的なことになるし、本来なら当人にも了解をとっておくことが必要かもしれないが、時間も無いし、お許しはあとでもらうことにしよう。

私には今、病気のために歩くのが少し不自由になった姉がいる。中学ではリレーの選手に選ばれたりして、運動オンチの私にはいつもまぶしい存在だった。今でもゆっくりなら歩けるし、医師の指示で毎日リハビリを続けている。「来年にはもっと歩けるようになるからね」という前向きの姉だ。

だが、いくら歩けるとはいえ、不自由のない私とは比べものにならず、旅行だ、コンサートだと、外に出る機会が多い私は、ついつい、自分ばかり出歩いて悪いなあと思ってしまう。

ある日、「ごめんね、私ばかり出かけて」という私に、姉はこう言った。「あなたには動ける身体があり、好きに使える時間があり、生活に不自由しない程度のお金もある。何よりも大事なのは、やりたいことがあり、行きたいところがあることよ。私に遠慮しないで、好きなように行動しなさい」

これが、わたしの胸に響いた「今年のひとこと」である。姉にとっては自然に出た言葉だったと思う。しかし反対の立場だったら、私は同じように言えただろうか。優しさとか心の広さというより、姉の人間性を感じるひとことだった。

 

2015年12月25日(金)東京の下町に戦禍のあとをみる

慰霊堂内

  慰霊堂内

戦後70年の今年もあと数日で終わろうとしている。その締めくくりというわけではないが、隅田川近くの横網町公園に行った。ここには大正11年9月1日に発生した「関東大震災」の殉難者を供養する慰霊堂が建てられているが、そこに昭和20年3月10日の「東京大空襲」で犠牲となられた方々もあわせて慰霊されている。現在は「東京都慰霊堂」として、約163,3000体の遺骨が安置されているという。

この地は当時、陸軍被服廠が移転して空き地になっていたため、周辺の人々が大挙して避難してきた。そのとき持ち込まれた家財道具に飛火した火が、折からの強風にあおられ、多数の焼死者が出た。また、その混乱の際の心無い流言のために、大勢の朝鮮の方がたが犠牲になったことはよく知られており、園内には朝鮮人犠牲者追悼碑が建立されている。

先の大戦ではアメリカ軍から、東京だけでも100回以上の空襲を受けた。「東京大空襲」と呼ばれる昭和20年3月10日は特にひどく、下町を中心に約100万人が罹災したという。この甚大な被害の犠牲者の大方は老人、女性、子どもなどの非戦闘員であった。終戦のおよそ五か月前に起こったこの無差別爆撃の悲劇を、今も記憶している人は多いだろう。

静かな慰霊堂には花が供えられ、お香がたかれていた。手を合わせ黙祷する。外にでると、雲もなく青く澄んだ冬の空に東京スカイツリーがそびえ、公園には鳩が飛び交い、人々はベンチでお弁当を食べていた。なんと平和な眺めだろう。いつまでも続いてほしい光景だった。

2015年12月7日(月)例えどんなことがあろうとも…

戦後70年の今年、立教大学の池袋キャンパス内メーザーライブラリー記念館2階で、企画展「戦時下、立教の日々―変わりゆく『自由の学府』の中で」が開催された。

たまたまポスターを見て会場に入った私は、その展示が描き出す内容20151127_121559_001の深さに胸を打たれた。当初7月21日~9月4日までの開催予定だったが、好評のため10月1日から12月8日まで再開催されたのだという。

好評もむべなるかな、同大学所蔵の多くの資料や記録、また近年、関係者から寄贈された資料はじめ、知覧特攻平和会館やアメリカ国立公文書館からのさまざまな資料により、当時の大学のありさまや学生たち、地域の人々の様子が詳しく解説され紹介されている。

ニュース映画で何度も目にした文部省主催の「出陣学徒壮行会」が、雨の明治神宮外苑競技場において行われたのは1943年10月21日。立教大学でも同年11月に大学主催の「学徒出陣壮行会」が行われたという。学徒出陣 ― 当時を考えれば当然ありえたことなのに、私は立教大学から学徒出陣された学生たちがいたことを初めて知り、愕然とした。これは私たちの生きている現代から、わずか数十年前におこったことなのだ。

戦争は、立教生や地域の人々の生活、人生をどのように変えたのか、と企画展は問う。「例えどんなことがあろうと、戦争だけはしてくれるな」――タブレットに書かれた追悼の言葉を、改めて深く胸にして会場を出た。よい企画展だった。

2015年11月13~17日 オーロラを見にいこう!

オーロラに惹かれて

かなり以前のことだが、飛行機に乗っていた時、キャビン・アテンダント(CA)の女性が、窓からオーロラが見えますと教えてくれた。外を見ると、北極の空に白いボンヤリした雲のかたまりのようなものが浮かんでいた。あれオーロラですか、とCAさんにきくと、さようでございますとのこと。私の心に「あんなんじゃなくって、写真で見るような色鮮やかなオーロラが見たい!」という憧れが住み着いたのは、その時のような気がする。

それから数十年、仕事のために数多くの海外旅行を経験した結果、私はすっかり飛行機での長旅が苦手になってしまった。いつまでも続く昼夜逆転の時差ボケの日々がツライ。それなのに今年、オーロラ鑑賞ツアーへの参加を決心してしまった。選んだのは「フィンランド5日間」という最短のコース。フィンランドは森と湖の国だよ、と友人はコーヒーを飲みながら言った。今年はオーロラのあたり年らしいから、いいんじゃないの、とも。

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この写真は、前出の友人がカナダで撮ったオーロラだ。ブログを読んでくださっている方に、せめてものお慰めにお見せしよう。

 ひたすら北をめざす

成田からヘルシンキ、さらにキッティラに飛んでから、やっと乗ったバスは街燈の無い雪道を、目的の村までひたすら北行する。薄暮のなかに見えるのはただ白樺の森、森、森……。

到着すると、ホテルで少し休んで、さっそくオーロラ探勝にでかけた。11月は冬の始まりなので、寒さはあまり感じない。北の空は雲が厚くかかり、この夜は空振り。このツアーはラップランドの小さな村の同じホテルに3泊してオーロラを待とうというアイデアなのだが、はたして……。OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 2日め、薄暗い。まだ夜が明けてないからかと思いきや、真昼になっても太陽は水平線の低いところにあり、上がらないのだ。でも、さすがに低くても太陽は太陽。真っ暗というわけではなく、昼間はそれなりに明るい。でも夜に写真を撮ると、そのままクリスマスカードになる。

人の姿もめったにない。犬の吠える声も聞かれず、動物といえば、ホテルの裏庭にかけられた巣箱のリスとそのエサに群れる小鳥ぐらい。時々他のリスが姿を見せると、たかい木々の梢でときならぬ追いかけっこが始まる。

オーロラは晴れていないと見えない。それなのに空はいつもどんよりと雲がかかっている。さらに雪も降る。いくら北の空を眺めても、オーロラの出現する気配はない。今日も空振り。

最後に見たものは…

3晩め。最後の晩だけに、昨晩の「なんとなく出そう~」というお化けみたいな予感から一歩進んで、今日は見えそうな気がする、と皆は意気軒昂だ。夜10時、ホテルの前で集合して、街燈の光だけを頼りに、さあ出かけよう。今日は徹夜しても見る覚悟だ。

ツアコンの男性が焚いてくれたたき火で暖を取りながら、オーロラ姫の出現を待つ。みんなで空をみていると、あれオーロラじゃない、と希望的な声と、それを打ち消す声が何度も飛び交う。そのうち、曇っていた空に星が見えてきた。雲が切れた証拠だ。すると突然、頭の上に光が! オーロラだ! みんな大興奮。私も三脚を用意していたことも忘れて、手元のデジカメで必死にねらう。

オーロラだ、待ちに待ったオーロラだ! しかしその光の波は、出現したときと同じように、音もなく消えていった

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見たわよ、見たわね、みんなで確かめあうようにうなずく。カメラは? 撮れた? うまく撮れた一人の廻りにみんなの輪ができる。わあ、きれい! この写真、私に送って!

興奮がさめると、また再びたき火の廻りに集まり、もう一度とばかり北の空を見あげ続けた。だが残念なことに、あの奇跡のような瞬間は二度とおきなかった。

翌日は帰国の日。ホテルからまたバスで空港へ。そして日本へ。この写真は、私が撮った快心の一枚だ。笑うなかれ、これでも必死で撮った私の夢のオーロラなのだから。

2015年11月10日(火)比叡山の秋

比叡山は、京都市と滋賀県大津市にまたがる日本仏教の聖地である。高野山と並んで古くから信仰の山とされ、今でも「千日回峯行」などの厳しい修行が続けられていることでも有名。延暦寺は、平安時代初期に最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院で、円仁、円珍、良忍、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、数々の名僧を輩出していることから、「日本仏教の母山」とも称されるのだそうだ。以上はみな、パンフレットからの受け売りである。私にはとても覚えられない。また、平成6年には、1200年の歴史と伝統が高い評価を受け、ユネスコ世界文化遺産に登録された。

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延暦寺山内を彩る秋

先日、その比叡山にのぼってきた。延暦寺では来年度から、国宝の根本中堂と重要文化財の廻廊を約十年かけて改修すると聞いて、改修前に参拝しなくては十年後にはどうなるか分からないと思ったからである。広い山内を東塔、西塔、横川と巡拝し、終点の比叡山山頂まで行った。人影もない山頂をあてもなく歩いていると、「根本中堂まで徒歩30分」と書かれた小さな案内板を見つけた。これはいい、山道を下って根本中堂まで行ってみよう。秋たけなわとOLYMPUS DIGITAL CAMERA言うには少し早かったが、それでも深山の秋は素晴らしかった。ふと見ると「東海自然歩道」の案内の横に「京都一周トレイル」の文字が! なんと、この道をたどれば、歩いて京都が一周できるのだ! ムラムラと「歩きたい病」が湧き上がる。いつかはトレイルで京都一周するぞと心に誓って歩いていると、東塔と阿弥陀堂にたどりついた。おりしも数名の僧侶の方がたによるご祈祷の最中だった。夕方の法要のお経と紅葉はよく似合った。

2015年11月8日(日)ウサギのまいた種はいつ芽がでるの?

種まきうさぎ

種まきうさぎ

映画『種まきうさぎ』を見に、ポレポレ東中野にいった。「ポレポレ」とは、スワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」という意味だそうで、Wikipediaによれば、ポレポレ東中野は、中野区内では唯一の映画館で、スクリーンの大きさに対して客席が少なく、客席1席あたりのスクリーン面積が日本で最も広い映画館なのだそうだ。ドキュメンタリー作品や新人作家作品などを中心に独自の上映スケジュールがなされるとあり、『種まきうさぎ』もその一環であろう。

東日本大震災と原発事故からすでに4年半がたち、しだいに薄れていく当時の記憶。福島の高校生たちが、被災地福島の姿を知ってほしいと自分たちの経験を朗読して全国によびかけた。『種まきうさぎ』はその4人の女子高校生たちの姿から始まり、大地や海を離れられない福島の農民や漁師たちの生き様をえがいたドキュメンタリー映画だ。ナレーションは大竹しのぶ。日曜日の昼間というのに、広くは無い映画館の中に観客の姿はまばらだ。上映後は、監督の森康行氏と「うさぎ」のメンバー尾形沙耶也子嬢が、この映画を作った心境などを語った30分のトークイベントが続いた。

福島市の西部に位置する吾妻小富士には、春になり山の雪が解け始めると、雪が白いウサギの形に残る。里の人々は山肌に現れるこのウサギを「種まきウサギ」とよび、苗代に種をまき始めるのだそうだ。4人の高校生「種まきウサギ」たちの撒いた種は、はたしていつ芽を出し、どんな花を咲かせるのだろう。

2015年11月1日(日)華やかに、でも寂しく

江戸東京博物館から会報が届き、その中に、小金井公園内の東京都指定有形文化財「旧自証院霊屋」が、東京文化財ウィーク2015の期間中だけ内部公開されているとあったので、急いで拝観に行った。

自証院は徳川の三代将軍家光の側室で、「お振の方」と呼ばれていた女性。のちに尾張徳川家に正室として嫁いだ娘・千代姫が、1652年に母の菩提をとむらうため市ヶ谷にある自証院に霊廟をたてたもの。その後、数回の修理が施されたが、明治になって解体され、再建されずにいたが、彫刻や彩色の価値により、小金井公園内の江戸東京たてもの園に移築され修理された。公開された霊屋は、中央部に須弥壇のみが置かれていただけだったが、扉と左右の蔀戸が開け放たれて、秋風が爽やかに吹きわたり、日の光がきらびやかな屋内OLYMPUS DIGITAL CAMERAを映し出していた。

お振の方については、いろいろな物語がある。ここに紹介するスペースは無いが、江戸城の大奥を華やかに彩った女性の一人である。昨年末に徳川家の菩提寺である増上寺と、今年になって同じく菩提寺の寛永寺の霊廟を拝観し、さらに数日まえには川越の喜多院で、「家光誕生の間」や「春日局お化粧の間」をたずねてきたので、ここにも徳川家にゆかりのある霊屋を見て、なにか因縁を感じてしまった。おそらくこの霊屋では御霊を供養することはあるまい。祀られていたお振の方の御霊は、今どこにいるのだろう。子ども連れの家族やアベックが、色鮮やかな霊屋をもの珍しそうにのぞいていった。

2015年10月30日(土)魔女のひとりごと

今夜から明日にかけて、渋谷や新宿などの繁華街は、魔女やお化けのオンパレード。コスプレした若者が大挙して街へ繰り出すこの光景は、数年前からチラホラ見られていたが、今やほとんど日本に定着したようだ。クリスマス、母の日、バレンタインデーなど外国生まれの行事が、今では大手を振って日本じゅうをカッポしているように、ハロウィーンもきっとそうなるのだろう。

ハロウィンもともとハロウィーンは、毎年10月31日に行われる悪霊などを追い出す宗教的な意味合いの行事だったが、現代のアメリカでは民間行事として定着した。カボチャをくりぬいた「ジャック・オー・ランタン」を窓に飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して、近くの家々を”Trick or Treat” (お菓子くれなきゃイタズラするぞ)と言いながらお菓子をもらって歩いたりするかわいい風習があるのだが、日本ではデパートのハロウィーン用コスチュームがバカ売れし、若い男女がこの日のために4時間かけてお化けのメークをする祭りに変わった。

何を隠そう、若いときにこんなことが流行していたら、私も喜んでその波にもまれていたに違いない。仮装するならやっぱり魔女だな。あの黒い三角帽子がいいじゃないの。それなのに今の私は、若者が渋谷の交差点などで騒いでいると、バカ騒ぎの自己満足だけに見え、うるさい、あぶない、早く帰って寝ろ!などとブツブツと文句を言っている。ああ、私はすっかり年をとってしまった……。

 

2015年10月26日(月)十三里はクリよりうまい?

川越のシンボル 時の鐘

川越のシンボル 時の鐘

高校時代からン十年の付き合いを重ねる美女3人、埼玉の小江戸とよばれる川越に散策にでかけた。雲ひとつない秋空のもと、喜多院、蔵のまち、時の鐘、菓子屋横丁など、観光ルートを上機嫌でめぐってきた。
昼食は、蔵のまちで見つけた小じゃれた和風レストランでの「さつまいもミニ懐石」。なにしろ川越は名にし負うサツマイモの産地だ。コースは「さつまいもカクテル」から始まって「いもコロッケ」「いもグラタン」「いもの白和え」「おさつ餅の揚げ出し」……最後に「サツマイモおこわ」と「おさつ汁」とイモ尽くし。これではいかにサツマイモ好きの女性でも、満足しないわけにはいかない。
ところで10月13日は「サツマイモの日」なのだそうだ。なぜ13日なのか、ご存知ない方のためにちょっとひと言。誰が作ったか知らないが「十三里」とは、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(九里+四里=十三里)」から来た、その美味しさを称えたサツマイモの異名だそうだ。また、サツマイモ名産地の川越が、江戸から「十三里」(約52㎞)のところにあることから生まれたという説、もっと美味しいからと「十三里半」という説まである。サツマイモが旬となる10月の13日を「サツマイモの日」として制定したのは、川越市の市民グループとのことだが、真偽のほどは詳らかでない。天高く馬もサツマイモで肥える秋とかや……。

2015年10月4日(日) 大野城跡での大冒険

念願だった福岡県の大野城址をたずねた。大野城は、いわゆる「城」ではない。7世紀初頭、朝鮮半島からの侵攻に備えて、四王寺山の上に築かれた全長約8kmに及ぶ広大な古代の要塞で、実際には朝鮮半島からの攻撃はなく、そのまま放置されてしまった。現在は、国の特別史跡に指定されている。なかば崩れた土塁と石垣で囲まれた城内には、今も建物跡や城門、水場などを見ることができる。
福岡市内からタクシーで、四王寺山の大野城観光センターまで行き、そこから地図を片手に歩きだした。人影がないが、城歩きは一人がよい。山上の石垣や土塁、建物跡などで楽しい時間を過ごした。よい天気で、山の上から大宰府の町や玄界灘がよく見えた。
夕暮れが近づき、観光センターの人に4時には必ず山を下ってください、街燈がないから真っ暗になりますからね、と言われたのを思い出し、急いで帰りの道を探した。「九州自然歩道」という立札を見つけ、これにしたがって歩いていけは町に着くだろうと、山道を下り始めた。だが、道はしだいに狭く、しかも急になっていく。
道を間違えたのだろうか、でもいまさら引き返せない。なかば滑り落ちるように下っていった。本当に明かりは一つもなく、ヘビの姿におびえながら、暗くなるいっぽうの山道をさらに下ると、やっと小さな古寺に着いた。
そこから携帯電話でタクシー会社に連絡した。10分ほど待つと、山道を上ってくるタクシーのヘッドライトが見えた。これで私の5時間におよぶ大野城での徘徊は終わるのだ。その時の安堵感は言葉にならない。