ブログ「私の城めぐり」

吹雪の備中松山城

国指定史跡「備中松山城跡」は、最近人気の天空の城のひとつです。もちろん、雲海に浮かぶお城を見るなんて幸運に、私が恵まれるわけはありません。写真はガイドさんにいただいたものです。

今年私が1月に行ったときは、小雪が舞っていました。正式には、大松山山頂の大松山城跡と小松山山頂に立つ小松山城跡を合わせたものを「備中松山城」というのですが、一般には後者をさし、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。標高は約430メートル。

お城までこんな山道と急な階段が続きます。サア、覚悟して登りましょう。

「寄りかかるべからず」

山道には、こんなご城主さまからの城内心得があちこちに。ここのご城主さまはめまぐるしく変わったとのことで、茶人としても作庭でも有名な小堀遠州さんもその一人だそうです。

まもなく途中の中太鼓丸の跡に到着。山頂のお城から城下への伝達事項は、ここの太鼓を使用しました。

眼下には城下町が一望です。JR伯備線の「備中高梁」駅や高梁川も雪でかすんでいます。

松山城の何重もの石垣には圧倒されます。こんな高い山の中にこんなにすごい石垣が…、山城ならではですね。
でも、岩盤に生える木々と石垣の重みで将来的には崩落する危険もあり、監視システムが設置されているそうです。

重要文化財の三の平櫓東土塀や櫓跡など、見どころが多い山道を登っていくと、二層二階の天守が見えてきました。

この日本一の山城の天守は、現存12天守のうち、一番高いところにあるのですが、天守としての高さは約11mで、最も低いのだそうです。小ぶりですが、冬空に凛として立っていました。

明治6年の廃城令のために荒廃した城を、土地の人々は修復と復元に力を合わせてきました。大人はもちろん生徒たちも資材を背負って山上まで運んだのだそうです。

「雪が激しくなってきましたよぉ。早く下山しましょう!」
ガイドさんの叫び声に、心を残しながら降りていく仲間たち。

でもどうしてもここだけは見たい!
雪がつもる石段を走って、天守の裏に立つ二重櫓へ。ここも国の重要文化財。見るものもいない櫓を見上げていると胸が熱くなりました。

先を行く仲間たちに追いつくために、走って降りる山道はもう吹雪です。

というわけで、私は無事に日本一高い山城「備中松山城」を登ってきたというわけです。めでたし、めでたし。(平成30年1月22日登城)

国府台城跡

1. 初冬の一日、あまりに天気がよいので久しぶりにお城探しにでかけました。

2. 千葉と東京の境を流れる江戸川です。右手が千葉、かつての下総国です。


3. 今日めざすのは下総の国府がおかれた国府台の国府台城。ほら、正面の小山がそうです。


4. 江戸時代、江戸川には関所が置かれていました。江戸に入る武器と出ていく女性は特に厳しいチェックをうけました。歴史で習った「入り鉄砲に出女」ですね。


5. 城跡に近づきました。ここは今は里見公園となって、城の名残りは何もありません。でも、この急な土手を見てください。これは土塁以外の何ものでもありません!


6. ここを侍たちは甲冑を着てよじ登ったのです。今、登るのはネコだけです。


7. 下を流れる江戸川は、天然の堀の役目をはたしていたのでしょうね。


8. なにか城だった証拠がないかなと探していたら、戦いで死んだ人を供養する碑がありました!


9. これは間違いないと喜んだら、さらに「国府台城跡」の説明板が見つかりました。こうして、私の苦労は報われたのです。


10. 江戸川もスカイツリーも私を祝福しているように見えました。

浜松城(静岡県浜松市)

 徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごした。この間に家康は姉川、長篠、小牧・長久手などの戦いを経験し、1572年の三方ヶ原の合戦は関ヶ原の合戦以上の激戦で、命からがら逃げ帰ったとつたわっている。すなわち、浜松在城17年間は、家康にとって、その後の徳川の栄光を築くための試練の時代だったのだ。
 野面積みの石垣のうえに、昭和33年に作られた復興天守が建つ。天守台に比べて天守がかなり小さい。この規模からすると、かつての天守は、現在のものより一回り以上大きい、巨大な天守だったとされている。

浜松城は、歴代城主の多くが江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。どのくらい出世したかというと、浜松城の歴代城主のうち、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人。そのうちの出世頭は、「天保の改革」で有名な水野忠邦で、幕閣入りを果たすためになりふりかまわず浜松城主になり、さらに老中にまで登りつめたというからたいしたものだ。

 浜松城近くの東照宮境内には、家康31歳・秀吉16歳の出世像が立つ。二人の間が空いているのは、ここに立って記念写真をとると出世するとのこと。今年のNHK大河ドラマで取り上げられた「女城主井伊直虎」の旗もたつ。今まで見向きもされなかった小さな井伊谷は、今は観光客でにぎわっている。これもある意味、出世にあたる。

 

 城を囲む公園には朝から多くの市民があつまり、体操やら散歩を楽しんでいる。近くの学校に登校する自転車姿の少年たちも目立つ。城をはるかに見上げて、彼らも将来の出世を夢見ているのだろうか。

伏見城(京都市伏見区)

 秀吉が隠居城として建造した初代の伏見城は指月山と呼ばれる場所に建てられたが、地震により倒壊。二代目伏見城は現在の木幡山に建ったが、ここで秀吉は他界し、その後に家康が入ったが、2年後に東国に行っているあいだに攻撃され、焼失。三代目は家康が再建し、家光の時代まで使用されたが、その後、廃城になった。
 秀吉が没し、家康・秀忠・家光が将軍宣下を受け、現在その跡地には明治天皇・皇后の御陵がたつという、なかなか数奇な運命をもつ城だ。
 天皇の御陵となっている地域には立ち入れないが、その参道には伏見城の石垣の石がならび、見ごたえがあり、歩いてみる価値がある。

 しかたない、われわれ庶民は、キャッスルランドの跡地に建つ模擬天守でも見にいこう。
 現在、木幡山にそびえる天守は、レジャー施設として建てられた模擬天守で、本来の伏見城ではないことは、以前に書いた。それはそれとして、ほら、なかなか立派な門ではないか、家紋がピカピカと光っている。
 天守も派手で、いかにも秀吉好みだ。これはこれで、けっこう好きという人もいるかもしれない。残念ながら、耐震基準に外れるため、内部には入れない。

 

近くの御香宮にも寄ってみよう。ここは明治維新の際に鳥羽伏見の戦いが行われた名高い所だ。
 門には「伏見城大手門」と堂々と看板がかかり、境内には伏見城跡残石とかかれた巨石が無造作に置かれ、さらに、「この立派な本殿は徳川家康が造営した」と書かれている説明板など、伏見城の面影が残るのはわれわれには嬉しい。

 広すぎてタクシーを利用せざるを得なかったが、運転手さんが話し好きで、当時住んでいた武士の名前がつけられた町名など、いろいろと教えてもらった。こういうのも旅の面白さだ。

駿府城(静岡県静岡市)

 JR静岡駅に着いたのはすでに午後8時を回っていた。ホテルにチェックインするとすぐに、歩いて5分の駿府城公園に行った。ここに今回の目的である駿府城が立っている。
 夜の駿府城はこんな感じ。まだ入ることはできるようだったが、公園内は真っ暗で人影もなく、おそれをなして、お堀端をあるいて帰った。

 翌朝、再び駿府城へ。家康公がいたころの天下普請の駿府城は、さぞ豪壮なたたずまいだったことだろう。今やその面影はなく、東御門と巽櫓、坤櫓が再建されていたが、天守台は目下、発掘調査中。中央の広々としたスペースでは、お手植えのミカンの木に囲まれて、家康公は一人で鷹狩りにいそしんでいた。
 一周すると駿河の国の名勝をたどれるように設計されている紅葉山庭園は、伸びやかで清々しい大名庭園。お茶室でお茶をいただき、お礼を言って出ようとすると、時間があればと言って勧められたのは、県庁別館21階にある展望ロビーだった。サル年生まれではないけれど、高いところが大好きの私は、さっそく県庁へ。

 日曜日にもかかわらず、あいそのいいガードマンに導かれて、展望ロビーに行くと、わあ、すごい眺め! 遠くの山並みの上には秀麗な富士のお山、真下にはさっきまで歩いていた駿河城公園。「この紋所が目に入らぬか」とばかりの三つ葉葵が、緑の中にくっきりと浮かんでいた。次は晴れた日に来たい。

岡崎城(愛知県岡崎市)

 家康の祖父松平清康が城主だった1542年(天文11年)に、この城で竹千代(のちの徳川家康)は生まれた。幼い竹千代は、周辺の有力武将たちに次々と人質にされたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、その期をとらえて家臣とともに岡崎城を取り戻すことに成功した。家康誕生の城としてこの城は神聖視され、徳川政権下では譜代大名が歴代の城主を務めている。

 城内には、天守をバックにして、竹千代と家康の銅像が並んで座っている。なかなか可愛らしい利発そうな竹千代と、「人の一生は重荷を負うて遠き道をいくがごとし」の遺訓どおりに、苦労を重ねた面ざしの家康が並んでいるのも面白い。これはベンチだそうだ。家康公の横に座ってツーショットはいかが。

 「神君産湯の井戸」では、遊びつかれた子供たちが、「お母さん、この水飲めるの」と聞いている。いくら開運スポットとはいえ、産湯の井戸の水ですよ、飲まないほうがいいんじゃない?

 もう一つ、家康のしかみ像がある。徳川美術館にある同名の有名な画像は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に大敗した家康が、自戒の念をこめて描かせたものと伝えられている。この像は、その画像をもとにして作られたもの。歯痛の人は同情しそうだ。

家康しかみ像

 今は岡崎公園となっているが、見どころも多い城だ。

水戸城(茨城県水戸市)

 黄門さまご一行の出迎えをうけ、JR水戸駅から北にむかって歩くと、ほどなく小高い丘陵地帯にぶつかる。この一帯がかつての水戸徳川家の居城であった水戸城跡である。
 今では、本丸跡には水戸第一高校、二の丸跡には水戸第三高校、第二中学校と茨城大附属小学校、三の丸には三の丸小学校と、学校がズラリとならび、さらに三の丸の一角に藩校・弘道館(国指定重要文化財・特別史跡)が建つ。

 本丸、二の丸、三の丸と連郭式にならんだ縄張は、それぞれ土塁と堀で守られていた。今も、JR水郡線が走る本丸と二の丸の間の堀底をのぞき込んでその深さに驚き、茨城県三の丸庁舎の前の空堀と土塁のみごとさに感嘆の声を上げてしまう。

全体的に、徳川御三家のひとつとしては質素な構えだったが、参勤交代がなく江戸常駐の水戸藩としては、藩主の居城は必要ではなかった。
 戦災のため、かつての建物はほとんど残っておらず、本丸跡にただ一つ残る藥医門(橋詰門)も、佐竹氏の旧水戸城の遺産だ。もともと天守はなくて御三階櫓がその役を果たしていたが、それも空襲で焼け落ち、今も再建されていない。

 城の塀をイメージした校舎が並び、水戸藩が誇る『大日本史』の編纂の地の石碑や、大手門と枡形、城主の像などがたつ静かな城跡を散策すると、水戸が果たした派手ではないが確かな歴史の歩みが感じられる。

二条城

 京都市内に広大な敷地をもつ二条城は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となった徳川家康が、京都御所の守りと将軍上洛の際の宿泊所として造営した平城である。
 
 三代将軍家光が後水尾天皇の行幸のために大規模に改修し、豪華賢覧な御殿や天守を建て、1626年(寛永3年)に完成した。それからおよそ250年後の1867年(慶応3年)、前年に第十五代将軍となった慶喜は、この二条城で大政を奉還し、徳川時代は幕を閉じた。二条城は、はからずも徳川政権の曙光と終焉の場面を見守ったわけである。
 
 世界遺産であり国宝の二の丸御殿にむかう唐門は、国内外の観光客の絶好の写真スポットであり、天守台では、二の丸庭園を見ながら外国の人たちがお弁当を食べている。敵の攻撃を防ぐための防御施設として築かれた城は、今や観光のメッカとなった。

 観光客でにぎわう城内もよいが、私はそれより、二条城の周囲を歩いてめぐるのが好きだ。東南隅櫓から始めて、ぐるっと一周してもそれほどの距離ではない。静かな堀と松の緑が美しく、他を圧するほどの高さをもたない石垣は、平和な時代の城というイメージそのものである。

東南隅櫓

天守台と堀

名古屋城(愛知県名古屋市)

名古屋城、いいなあ。高石垣の上にそびえる天守。その屋根の上には名古屋名物の金のシャチ(鯱)、火災の時は口から水を出して建物を守るといわれる霊魚だが、広げた尾のうえにカラスを留まらせているおおらかさ。

戦災で焼けてしまって、今の天守はコンクリート建てだし、シャチだって復元されたものだというが、美しけりゃいいじゃないか。「尾張名古屋は城でも」っているのだもの。

江戸幕府を開いた徳川家康の、最大の敵は大坂城に陣取る豊臣勢。家康は、それに対する備えとして、1610年(慶長15年)にこの城を築城した。西国諸大名による天下普請だ。本丸の北西隅にそびえる高さ55.6メートルの天守を支える石垣はもちろん加藤清正の担当だ。最大級の規模を誇ったこの城は、徳川御三家の一つ尾張徳川家の居城として、明治まで利用されていた。

いくつか残存していた城内の建物も、1945年の大空襲により、焼失。戦後になって、地元の人々の熱意により、天守が復元された。なかでも、大天守に上げられた金のシャチ(金鯱)は、名古屋の人々のシンボルになっている。

かつては将軍の上洛の際に使用した本丸御殿も、戦災で焼失の憂き目にあった。しかし、現在は復元計画が実施され、すでに目にも艶やかな一部が一般公開されているほか、平成30年には全体公開が予定されている。

いっぽう、鉄筋コンクリート製の天守閣はといえば、耐震性や老朽化が問題となり、現在は、木造による再建も検討されているという。

復元工事が進む本丸御殿

木造の天守をもつ名古屋城か、いいなあ、早く見てみたい。

江戸城(東京都千代田区)

 東京の中心地に立ち並ぶ高層ビルに囲まれて、ひっそりとたたずむ広大な緑の森、それが皇居であり、かつての江戸城だ。
 歴史の本によれば、江戸城が例の山吹の歌で親しい太田道灌によって築城されたのが1457年とのこと。1590年、徳川家康が駿府から入ったときは、茅葺きの家が立つ荒れ果てた土地であったという。
 その後、関ケ原の戦いで政権を掌握した家康はじめ、秀忠・家光がその本拠地として改修をかさねた。とくに江戸開府以降は、世にいう天下普請の城として、諸大名に木材や石材を運ばせて、天守台と天守、石垣を築き、堀普請を行った。
 こうして大幅に改修された江戸城は、1657年の名高い明暦の大火をはじめとする数々の火事、関東大震災、東京大空襲などにもめげず、必要に応じて改修が行われ、いまもなお国内最大の城郭として威容を誇っている。
 この巨大な城の歴史はあまりにも有名で、ここに改めて書くこともない。江戸城の遺構はそれほど残ってはいないが、今も東京の中心地にあり、皇居として天皇が住まわれている。

東御苑に残る巨大な天守台

 お住まいの吹上御所周辺はうっそうとした森に包まれ、特別の許可がなければ入ることはできないが、1968年から一般公開されている東御苑は、現在、人気の観光スポットとなっている。
 広大な芝生の広場は、かつて江戸城の本丸御殿が建っていた場所で、御殿には表・中奥・大奥の区域があった。さらに巨大な本丸天守台も必見である。天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれたが、明暦の大火で焼失した以後は建てられることはなかった。
 東御苑に入る大手門は、かつての大名たちの登城門であり、枡形や渡櫓門が江戸城の面影をのこしている。二の丸・三の丸が立っていた場所は、現在は皇居附属庭園として整備され、静かな庭園が広がっている。

二の丸庭園

 以前このブログに「内濠に沿って歩く」という一文を載せたので、参照していただけるとありがたい。

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