寛永寺徳川霊廟特別参拝《平成27年3月1日(日)》  

寛永寺

寛永寺

小雨から大雨になりそうな気配の3月1日、結の会からの参加者6人は、午後2時からの寛永寺の徳川霊廟特別参拝に参列した。
総勢40人ほどの列席者は、本堂(根本中堂)に集合したうえ、寛永寺の僧侶の方の先導により、般若心経をあげてご本尊さまにご挨拶の法要。その後、寛永寺の成り立ちから居並ぶ仏さまのことなど詳しく説明をうけた。


寛永寺は、江戸時代、寛永二年(1625)慈眼大師天海大僧正によって創建された寺。江戸城の鬼門の方角にあたっているので、やはり京都御所の鬼門に位置し、御所を守っている比叡山延暦寺にならっている。「東の比叡山」ということで東叡山、「寛永年間に創建」されたので寛永寺と名づけられた。
今回の特別参拝で拝観させていただいたのは、本堂にあたる「根本中堂」、幕末に十五代将軍徳川慶喜公が謹慎蟄居された「葵の間」、それに「徳川将軍御霊廟」のうち《常憲院殿(五代綱吉公)》《有徳院殿(八代吉宗公)》《温恭院殿(十三代家定公)》《天璋院殿(十三代御正室)》。
参拝者がとくに感銘をうけたのは、十五代将軍慶喜公の蟄居の間。わずかな間とはいえここに将軍が住んでいた!とは考えられないほど、地味で質素な10畳と8畳の二間続きの部屋だった。壁紙は葵の模様、欄間も葵の彫刻であったのが印象的。慶喜公はここに2か月のあいだ、住まわれていたそうだ。どのような心境でおられたのだろうか。考えると立ち去りがたい思いだ。
最後にご案内いただいた徳川家の御霊廟は、結の会では数か月前に増上寺の徳川家霊廟をお参りしていたので、感銘深いものがあった。両寺とも徳川家の菩提寺だが、いっぽうの寛永寺は、幸いにも戦火にあわなかったので、六代の将軍たちが当時のままの姿を残す豪華な宝塔に眠っている。いっぽうの増上寺は今次の大戦により焼失してしまったため、霊廟に土葬されていた六代の将軍のご遺骸は、戦後の学術調査ののち荼毘にふされ、今は増上寺の一隅にひっそりと眠られている。いずれも安らかにと祈らずにはいられない。

2015年7月6日